否定の美しさ
否定されることって嫌なイメージないですか?
自分の意見(観点)=自分自身(ID)
日本人は特にこんな公式が当たり前になっているから
自分の意見を否定されると、
まるで自分自身を否定されたかのように思い
大きなショックを受けたり、
酷いって思って相手を責めたりしがちですよね
このことで言えばまずは
自分の意見(観点)=自分自身(ID)
これを切り離して考えることが必要なんだけど
今回はそこからの否定の話ではなく
今朝、否定の美しさを感じたのでそのことを書いてみようと思います
ここ数か月
平日夜は毎晩、令和哲学カフェに参加することが日課になっている私
令和哲学カフェだから、もちろん哲学に触れます
西洋哲学の歴史を振り返りながら令和哲学からの解析を行い
そして、今の時代に必要な哲学についての話になるわけですが
西洋哲学を学ぶ中で、それぞれの哲学が生まれるまでに
時代背景や宗教の神との関係などなど
色々なことが関係しているということを知るわけです
その中で、ある哲学者はここまでのことを述べ
そして、その哲学を理解したうえで新しい哲学を提唱する
それを繰り返して今に至っていることを知りました
令和哲学カフェの中で、
『哲学は今までの全てをオールゼロ化して新しいものを生み出す。
今までをまとめて底上げができないと、この時代の哲学にならない』
といっていました
今まで哲学者たちは、自分よりも前に提唱されたものをオールゼロ化して
新しい哲学を生み出すということをしてきた
そして、その時代の哲学を生み出し今の時代まで引き継がれている
今までの全てをオールゼロ化って簡単に言うけどめちゃくちゃ凄いこと!
オールゼロ化=否定ととらえた時に、
オールゼロ化は今までの知識を理解し、何が限界なのかがわかるから
ゼロ化(=否定)ができるわけで
理解がなかったら、ゼロ化して底上げなんてできません
理解のうえで限界がわかるから、その限界を補い底上げしてしまうのが否定
そう観た時に否定がとても美しいものに見えました
東洋は2次元観点の〈主観的思い込み〉で
経験知識だから知識蓄積 進化発展が遅い
それに比べて
西洋は3次元観点の〈客観的思い込み〉で
概念知識だから知識蓄積 知識の進化発展が早い
と令和哲学では言っています
自分が経験したことをもとにした主観的な思い込みの世界だから
自分の意見(観点)=自分自身(ID)と思い込んで
否定される=傷つけられるものと受け取ってしまう構造があるのだと思います
否定する側になった時にも、
自分の経験知識からでは相手を理解することは難しく、自分勝手な理解から
感情的に良くないものは良くない!というような否定になってしまう
否定とは何なのか
否定することは上昇をつくることであり愛であること
その理解から私の中で「否定=美しい」とつながりがおこりました
自分のイメージが変わることで
今まで見てきた世界が全く違うものにひっくり返ってしまう
これも今までの観方を否定するから生まれることですよね^^
令和哲学を学び、日常の会話の中での一言が不意に気付きにつながり
見てきた世界への解析が変わってしまう
そんな世界との出会いが楽しくてたまらない✨
今日は否定についての気付きが朝からあったので書き出してみました^^