始まりに全てが含まれているということ
お金・孤独・健康・生死から自由になったとしたら
何を追求し、どんな目的を持って生きるのか?
今日はこんな問いからスタートした令和哲学カフェ
「ヘーゲルと令和哲学」3日目です
それぞれの意見と論破が飛び交った後に
Noh先生がまとめをしてくれる中で
カントとヘーゲルを取り入れて考えるとどうなるのかの解析です
ヘーゲルは「究極の目的が何なのかを言わないと哲学じゃない」
というところから絶対的自己実現を述べています
絶対精神と自分が一つになる時代であり、その時に何を具現化するのか
人間の理性が究極に広がった時に何を願い、どうなるのでしょうか
WHTでの主張の中に、大きなチャレンジができなことが問題だという主張に対し
そもそも既存の問題を解決もしていないのに、
大きなところへのチャレンジをしても、解決されていない問題が同じように
起きるのではないかという意見がありました
それはその通りですよね
ヘーゲルは、究極の目的は始まりに既にあるといっています
例えば富士山に登ると決めた時から目的は既にあり、
モチベーション・エネルギーもわいてくる
明確に具現化されるのは富士山の頂点に立った時であり
始まりに目的が既にあるということがわかることで
どんなに小さな一歩でも無駄なことがないんだ
ということががわかる道だと行っています
よく令和哲学では
「始まりにないものは終わりにもない」といいますが
まさにこのことですね^^
最後に、
失うものが何もにないことは恐怖が何もないことでもある
今までの哲学の限界を観て補える令和哲学
自分と自分の宇宙がないと言いきれる令和哲学のパワーを感じた夜でした
今日も凄かった!