今ここ感じることブログ

今の時代にどんな生き方が必要とされているのか。どんな生き方がしたいのか。自由に表現していく為のブログ☆

健康な社会とは?

ニーチェと令和哲学≫ 2日目

 

今日は健康な社会の絶対条件とは?

この質問から入りました

健康な社会…そもそも今の社会は健康なのか?

今の社会?どうなんだろう?

ここ最近、悲しいことに芸能人の自殺が続いている

人気があって、美しさもあって、お金もあって

あんな人になりたいなと憧れられる人でもある

でも、そんな人が自らの命を絶つという選択をしてしまう

そんな今の社会は健康なのか・・・?

 

今の社会は健康ではありません

自らの命を断つという選択をする社会が健康であるとは決して言えません

悲惨、残酷、屈辱な世界、それが今の社会。。。

永劫回帰の無意味な人生の中で自らの確立した意思でもって行動する

「超人」であるべきとニーチェは言います

この社会をどう観て、そこに対してどんな生き方を選択していくのか

 

悲惨、残酷、屈辱の社会の中で

意志を立てて生きていくということは簡単なことではありません

 

例えば殺人鬼が溢れる世界に正義感を持った一人の勇者がいたとして

彼は自分の命、自分の周りの人の命をどうやって守るのか

殺人鬼に怯え、見つからないように常に隠れて生きるのか

自分や周りの人の命を救うために殺人鬼を殺して平和な世界を

手に入れようとするのか

守るべき者の為に殺人鬼を殺すことは正義であると思われるかもしれない

でも、その勇者は殺人鬼を殺す殺人鬼になってしまったともいえる

殺人鬼を殺すのではなく、殺人鬼を勇者に変え仲間にしながら

殺人鬼が溢れる社会を勇者が溢れる社会に変化させていくという生き方

 

私は令和哲学でいう「超人」とは、

殺人鬼を勇者に変え仲間にし、そして社会を変化させていく個人を

いうのだと思います

 

人は悪い状態を見たくないと思うものなのかもしれない

自分の感覚や、理想から今はこうだと思いたい

でも、その思いたい世界から出発したら見えないものがある

理想はもちろん大事 でも今をどう観るかの力はもっと大事

今起こっている現象にはどんな現象があって

それが起こるということは今はこうなんだと正しく規定できる力

その観る力が大切なのだと思う

 

ニーチェを通して、

哲学は規定力

そして、その自分が規定した世界に対してどんな解決策を提示するのか

なのかなと思った^^

ニーチェすごいな✨

今晩も楽しみだ!

ニーチェってかっこいい!

ニーチェってかっこいいっ!

 

今日から令和哲学カフェのテーマは

ニーチェと令和哲学≫です

ニーチェについては以前にも取り上げているので

予備知識は少しだけあります!

 

誰も歩んだことのない道を歩みなさいというニーチェ

ニーチェ自身が誰かの歩んだ道を歩むのではなく

自らの道を歩んでいった人なのだと感じました

キリスト教を否定することは今でも簡単なことではなく

当時の時代背景、そしてニーチェの家庭環境から考えて

不可能といっていいくらいのことだと思います

キリスト教を否定する道を歩むことの勇気にも関心ですが

キリスト教を否定しながらもジーザスは否定しないというところに

ニーチェの観る世界が他の人たちとは違っていたことを表している象徴

だと思いました

 

そして、自分は100年後に生まれる存在だったといえるのも

他との圧倒的な違いが明確に観えているからこその言葉だといえるし

観えてしまった者としての圧倒的なプライドがあるんだと感じました

そして、それはNoh先生に対しても感じることで

Noh先生とニーチェの共通点を観た感じがしました

 

100年後に生まれる存在だったといったニーチェ

本当に約100年後の今、ニーチェのことをこんなにも理解している

人がいる、集団がいるんだということ

令和哲学によってニーチェが本当の意味で輝ける

そんな時代が始まるのかと思うとわくわくします^^

 

今日はすごいっ!ということの感想でした^^

 

ニーチェ哲学では

Übermenschやアモール・ファティ、永遠回帰などあります

次回からのWHTで更に深めていきたいと思います

言いたいことが言えない・・・

なぜ言いたいことが言えない心の状態になってしまうのか

今日の令和哲学カフェは「ヘーゲルと令和哲学」4日目です

身近なことを題材にしたWHTということで、このテーマ!

 

言いたいことを言えないレベルがどのレベルなのか

 

人は対象に依存するから言えないのか

相手、自分の分別があるから言えないのか

相手、自分を統合する理性を持っていないから言えないのか

主観精神・客観精神を超えた絶対精神の境地に達していないから言えないのか

なんで言えないのかの理由も多様な広さ、深さがある

 

今日の令和哲学カフェの中で日本についての話がありました

令和哲学なので、日本についての話題は当たり前にたくさんありますが

言いたいことを言えない事と日本をつなげた話はとても興味深かった

 

日本は主観精神を超えて客観精神までいった経験がある

それが明治維新

そして、そこからの1945.8.15の終戦

その経験を通して、

日本という集団全体は、これからはアメリカのステージだということを決めた

日本のプライドが切られた瞬間であり、沈黙の日本の始まりである

アメリカに協力はするけど、日本のステージではないからそこに本音はない

 

西洋に学び、真似をしてみたけれど原爆2つ落とされるという結果

そんな西洋を心のそこから尊敬するのかといえばするはずがない。。。

 

客観精神まで成長した日本の精神は今はとても小さく小さくなっている

明治維新の精神を超え、世界レベルまで大きく成長し

77億が喜んだ時に日本人は沈黙を破り本音があふれ出すようになる

 

この話を聞いた時になんだかとても納得した感じがありました

令和哲学と出会う前の私は、日本という国に対して特別な感情はありませんでした

「凄くない」とは思わないけど、「凄い」とも思わない

「興味がない」という表現が一番しっくりくる

そしてだからと言って西洋に憧れ、西洋を凄いって思っていたのかと言えば

そんな風にも思わない

憧れ、尊敬し、学びたい!そんな風にも思わなかった

だから、

アメリカに協力はするけど、日本のステージではないからそこに本音はない」

というのは妙に納得してしまう感じがありました

そして、

「77億が喜んだ時に日本人は沈黙を破り本音があふれ出すようになる」

という表現にもなんだか喜びを感じる感覚がありました

 

Noh先生は、原爆2つ落とされた日本の経験が人類の宝だと言います

日本という国の集団のエネルギーがものすごい宝だと

目で見たらアメリカに負けた日本、本音を隠し沈黙する日本。。。

そこから目覚めた時に本物の哲学を世界に発信できる日本になる

だから、目で見ちゃダメ!

最大多数、最高幸福を今ここ観ることができるのか

その観察方式を持っているのか

 

個人のレベル、集団のレベル、精神のレベル

色々な段階があるけれど

どの段階であっても、目で見ちゃダメ!!

始まりに全てが含まれているということ

お金・孤独・健康・生死から自由になったとしたら

何を追求し、どんな目的を持って生きるのか?

 

今日はこんな問いからスタートした令和哲学カフェ

ヘーゲルと令和哲学」3日目です

 

それぞれの意見と論破が飛び交った後に

Noh先生がまとめをしてくれる中で

カントとヘーゲルを取り入れて考えるとどうなるのかの解析です

 

ヘーゲルは「究極の目的が何なのかを言わないと哲学じゃない」

というところから絶対的自己実現を述べています

絶対精神と自分が一つになる時代であり、その時に何を具現化するのか

人間の理性が究極に広がった時に何を願い、どうなるのでしょうか

 

WHTでの主張の中に、大きなチャレンジができなことが問題だという主張に対し

そもそも既存の問題を解決もしていないのに、

大きなところへのチャレンジをしても、解決されていない問題が同じように

起きるのではないかという意見がありました

 

それはその通りですよね

ヘーゲルは、究極の目的は始まりに既にあるといっています

例えば富士山に登ると決めた時から目的は既にあり、

モチベーション・エネルギーもわいてくる

明確に具現化されるのは富士山の頂点に立った時であり

始まりに目的が既にあるということがわかることで

どんなに小さな一歩でも無駄なことがないんだ

ということががわかる道だと行っています

 

よく令和哲学では

「始まりにないものは終わりにもない」といいますが

まさにこのことですね^^

 

最後に、

失うものが何もにないことは恐怖が何もないことでもある

今までの哲学の限界を観て補える令和哲学

自分と自分の宇宙がないと言いきれる令和哲学のパワーを感じた夜でした

 

今日も凄かった!

これからの時代に求められる自由とは

ヘーゲルと令和哲学 2日目

今日はヘーゲルの人間の歴史は自由実現の拡張の歴史というところから

【テーマは自由】でした

 

人間は今まではどんな自由を持っていて、

そしてこれからどんな自由を得たいと思っているのか

 

その問いがきた時に、まず自由ってそもそも何?

今までどんな自由を持っていたんだろう?

私が自由だって思う世界は何なんだろう?

考えてみれば、自由なんて持っていたのだろうか?

そんなことを感じるところからのスタートでした

 

WHTではそれぞれの主義主張から論破を重ね

束縛からの自由になることが大切なのか

創造目的に行くことができることが自由なのか

この2つの意見にが最終的にでてきました

さて、どちらが求められるのでしょうか

 

今回はヘーゲルがテーマなので、

ヘーゲルが何を主張しているのかというところから整理していきます

カント哲学は定言命法でもあるように、

『意志行動の準則について、宗教の教理や国の法律ではなく、

 あなたがあなたのルールをつくって普遍的な立法のようにしなさい』

という個人レベルの自由を述べています

それに対してヘーゲルは共同体の自由を大事にしている主張です

(この部分についてはまだまだこれから勉強!)

ポストコロナ時代になった時には今までの当たり前は崩れ

今までとは違った新しい誰もが歩んだことのない道に進んでいく

そんな勝負が必要になっていきます

だから、新しい法律や秩序も必要になっていくでしょう

そこに対して積極的に追求していく自由が必要になります

 

令和哲学カフェの中で言っていました

個人の美しい精神と客観精神の勝利にいける

完全な認識と完全な集団にいける時代が今からの時代なんだと

これまでの歴史の流れの中で人間が通過してきた

全体主義でもなく、個人主義でもない

それらの限界を突破してく共同体の自由

 

ヘーゲルのいう共同体の自由とは何なのか

そして令和哲学でいう共同体の自由とはなんなのか

今日、ヘーゲルと令和哲学 3日目でどんな内容がでてくるのか

楽しみです☆

否定の美しさ

否定されることって嫌なイメージないですか?

自分の意見(観点)=自分自身(ID)

日本人は特にこんな公式が当たり前になっているから

自分の意見を否定されると、

まるで自分自身を否定されたかのように思い

大きなショックを受けたり、

酷いって思って相手を責めたりしがちですよね

 

このことで言えばまずは

自分の意見(観点)=自分自身(ID)

これを切り離して考えることが必要なんだけど

今回はそこからの否定の話ではなく

今朝、否定の美しさを感じたのでそのことを書いてみようと思います

 

ここ数か月

平日夜は毎晩、令和哲学カフェに参加することが日課になっている私

令和哲学カフェだから、もちろん哲学に触れます

西洋哲学の歴史を振り返りながら令和哲学からの解析を行い

そして、今の時代に必要な哲学についての話になるわけですが

西洋哲学を学ぶ中で、それぞれの哲学が生まれるまでに

時代背景や宗教の神との関係などなど

色々なことが関係しているということを知るわけです

その中で、ある哲学者はここまでのことを述べ

そして、その哲学を理解したうえで新しい哲学を提唱する

それを繰り返して今に至っていることを知りました

 

令和哲学カフェの中で、

『哲学は今までの全てをオールゼロ化して新しいものを生み出す。

 今までをまとめて底上げができないと、この時代の哲学にならない』

といっていました

 

今まで哲学者たちは、自分よりも前に提唱されたものをオールゼロ化して

新しい哲学を生み出すということをしてきた

そして、その時代の哲学を生み出し今の時代まで引き継がれている

今までの全てをオールゼロ化って簡単に言うけどめちゃくちゃ凄いこと!

 

オールゼロ化=否定ととらえた時に、

オールゼロ化は今までの知識を理解し、何が限界なのかがわかるから

ゼロ化(=否定)ができるわけで

理解がなかったら、ゼロ化して底上げなんてできません

理解のうえで限界がわかるから、その限界を補い底上げしてしまうのが否定

そう観た時に否定がとても美しいものに見えました

 

東洋は2次元観点の〈主観的思い込み〉で

経験知識だから知識蓄積 進化発展が遅い

それに比べて

西洋は3次元観点の〈客観的思い込み〉で

概念知識だから知識蓄積 知識の進化発展が早い

と令和哲学では言っています

 

自分が経験したことをもとにした主観的な思い込みの世界だから

自分の意見(観点)=自分自身(ID)と思い込んで

否定される=傷つけられるものと受け取ってしまう構造があるのだと思います

否定する側になった時にも、

自分の経験知識からでは相手を理解することは難しく、自分勝手な理解から

感情的に良くないものは良くない!というような否定になってしまう

 

否定とは何なのか

否定することは上昇をつくることであり愛であること

その理解から私の中で「否定=美しい」とつながりがおこりました

 

自分のイメージが変わることで

今まで見てきた世界が全く違うものにひっくり返ってしまう

これも今までの観方を否定するから生まれることですよね^^

令和哲学を学び、日常の会話の中での一言が不意に気付きにつながり

見てきた世界への解析が変わってしまう

そんな世界との出会いが楽しくてたまらない✨

 

今日は否定についての気付きが朝からあったので書き出してみました^^

より楽しい映画を観るには

私たち人間は人生という名の映画を一人ひとりが持っています

あなたが今見ている映画はどんな映画でしょうか?

楽しい映画?

悲しい映画?

怒りの映画?

波乱万丈な刺激的な映画?

10人いれば10通りの一人として同じ映画はありませんよね

 

では、今見ている映画は一旦置いておいていいとしたら

あなたはどんな人生の映画をみたいですか?

 

もう一つ考えてみましょう^^

今、あなたが観ている人生の映画は人や環境や様々なものから

影響を受け、そこから何を感じ、どうするのかを考える

そんな映画ではないでしょうか

 

・両親の期待に応えるようにしてきたら

 人からの期待に応えられない自分はいる意味がないんだと

 常に期待に応えることに一生懸命になっている

 

・幼い頃に頑張って発した一言を否定されて以来

 自分が主張すること=否定される

 このイメージが強く、自分の意見発することができなくなってしまった

 今では人に意見に合わせて、自分の気持ちは常に隠しながら

 人との関係を築いている

 

人それぞれの人生の出来事があり、

そこからの影響によって今の生き方が決まっています

それは果たして自分が望んでいる生き方でしょうか?

 

何にもとらわれることなく、今ここから人生という映画の脚本を

描くことができるとしたら、全く違った映画を描けると思いませんか?

映画だってどうせ見るのなら、より楽しい映画を観たいですよね^^

そんな映画の脚本を描き、そして出演者にもなれる生き方

 

そのために必要なのが、自分の今見ている宇宙を

オールゼロ化する技術です

ゼロ化といっても自分の人生を否定する意味ではありません

ゼロ化するから今までの人生も活かせる世界があるのです

 

生かされているとか

誰かのために生きるとか

こんな表現よく聞きませんか?

何かに生かされる生き方ではなく、

誰かのために生きる2番目の生き方ではなく

あなた自身が生きる!

全てを生かす生き方

 

私はそれが本来の生き方であると思います^^

日曜の午前

今日も素敵な1日をスタートさせていきましょう!